2014/08/18

珍しく続いたので

飽きっぽい私にしては珍しく継続。
ギターの練習を始めてから3ヶ月が経ちました。
簡単なコードならそこそこ弾けるようになって、自分で演奏ができるって楽しいなと感じています。
今まではカホンのリズムだけだったので、新鮮な心地です。

その時、その時の自分の気持ちにぴったりな歌詞の賛美を歌うと元気が出ます。



「One Voice」


2014/08/09

同情する神

最近いろいろありました。
どちらかと言うと、つらいことです。
実のところ今もつらいです。

だけどその中で、私はあまり気づいていなかった神さまの一面を見ることができました。

ある問題があって、でもその原因は自分にありました。
頭では、変わらなくちゃいけない、改めなきゃいけないと分かっているのに、
心はどうしても納得してくれません。
理性と感情が真逆の方向を向いているのです。

神さまにしてみれば、私のことを裁いて罰しても良かったはずです。
私が悪いのだから、一方的に責めても私は何の文句も言えません。
神さまからのキツイ一撃をくらってもおかしくない状況でした。

それなのに、どういうわけか神さまはそうはせず、非常にやんわり優しく諭してくれました。
そして同情を示してくれました。
(先日「正直人生」をテーマに、教会キャンプに行ってきました。神さまに自分の気持ちのすべてを、ありのまま打ち明けることを学びました。私も自分の気持ちをぶつけたら、神さまからの応答が早くて嬉しかったです)。

もちろん罪がそのままでいいはずがありません。
罪は罪なのです(キリスト教では刑法上の罪だけではなく、心の中で犯す罪も“罪”としてカウントされます)。
でも神さまはそんな私を一方的に裁くことはせず、「そういうことはしないでくれないか、友よ」と言ってくれたのです。

どうもこれまで、私は神さまをずっと遠くに見ていたようが気がします。
全知全能、遍在の神。
創造主、裁き主。
今いまし、昔います聖なる方。
そうした力と栄光を表すいくつもの肩書きを持った、絶対的存在としてのイメージを強く持っていました。

だけどそれだけではないんだと、身をもって体験できました。


このつらさはまだ続くかもしれないけれど。
神さまが「友よ」と言ってくれるから。
もう少し歩いてみようと思います。


「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」―― ヘブル4章15節

「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」―― ヨハネ15章14節


「I Will Run To You」




2014/06/23

しあわせの秘訣

もちろん聖書の原本は日本語ではありません。
旧約聖書はヘブル語。新約聖書はギリシャ語で書かれていました。
私たちが聖書を日本語で読むためにそれらは翻訳される必要があるのですが、聖書の訳には2つの種類があります。
「新改訳」と「新共同訳」です。
どちらの訳でも大きな違いはありませんが、微妙に言葉が違っていたりします。
聖句によっては、解釈の違いにより「全然違う!?」と思ってしまうものも少しあります。

聖書は、初めて読む人には難解な書物かもしれません。
分かる所は分かりますが、「なんのこっちゃ!!」と思うところもあるはず。
そんな方には「リビングバイブル」がお勧めです。
こちらは難しい聖書のことばを簡単にして、意味が分かりやすいようにまとめたものです。
初めての方でもすらすら読めるでしょう。

さて。上記の他に、もう一つ「文語訳」というものがあります(前回の投稿でも末尾に引用しました)。
これは昔の日本語で書かれた聖書で、難しい聖書がもっと難しく読めてしまうというステキな訳です。
すらすら読める方は、古典が好きな方でしょう。

私よりも二世代以上前の先輩方は、この「文語訳」で聖書を読んでいたはずです。
私は「文語訳」が好きです。
この格調高い翻訳に、私は力強さとカッコよさを感じるのです。
なのであえて文語訳で読むことがあります。
現在は書店で売っていることはないでしょう。復刻版がネットで買えます。
「わが榮えよさめよ 筝よ琴よさめよ われ黎明をよびさまさん」詩篇第五七篇八節
「是なんぢら責むべき所なく素直にして、此の曲れる邪惡なる時代に在りて神の瑕なき子とならん爲なり。汝らは生命の言を保ちて、世の光のごとく此の時代に輝く。」ピリピ人への書第二章一五節
……とかが好きです。


最近、悲しくなることがありました。
しょぼーん(´・ω・`)としたわけですが、知り合いの年配のクリスチャンの方が、次の聖書を文語訳で教えてくれました。
「困苦にあひたりしは我によきことなり 此によりて我なんぢの律法をまなびえたり」詩篇第一一九篇七一節
これは新改訳ですと、
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」詩篇119篇71節
となります。

苦しいものは苦しいのです。
でもそれによって、私は神さまの掟を学ぶことができる。

神さまは私以上に私のことを知っており、私の幸せをちゃんと考えてくれています。
そしてそんな神さまの掟に従うことは、何より、私が幸せになるために必要な事なのです。
心の痛みは、正しい道へ帰るための一番の処方箋です。

「悲哀は嬉笑に愈る 其は面に憂色を帶ぶるなれば心も善にむかへばなり」傳道之書第七章三節
「悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。」伝道者の書7章3節


「満たして下さる方」




2014/05/31

Miserere mei Deus

音楽にはたくさんのジャンルがありますが、どのジャンルを引っくるめてもダントツで好きな曲が、僕にはあります。

それはグレゴリオ・アレグリが作曲した、「Miserere mei Deus (みぜれーれ めい でうす)」です。正確には、聖書の詩篇51篇に、グレゴリオさんが曲をつけたみたいです。

これまで聞いた回数は1000回を越えるはず。静かで、心の底に染みいるような曲調が好きです。
考え事をする時や、悲しい気持ちになった時に聞いています。


 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。―― 詩篇51篇



本来は10分を越える曲ですが、こちらのバージョンではやや省略していますね。

「Miserere mei Deus」



2014/05/24

正直者が馬鹿を見る?(詩篇15篇)

ダビデの賛歌
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。―― 詩篇15篇


 幼少のころから、僕はウソをつかないようにしてきました。それは別に、僕の倫理観が優れていたからではなくて、ウソをつくと結局、自分が不利な立場に立たされることを体験から学んでいたためです。つまらないウソをついて痛い目を見たことは、僕にとって良い経験でした。

 “ウソをつかない”ことの良いところは、どんな状況でも堂々としていられるということです。自分の中に後ろめたさがないというのは、真っ青な空のように、気持ちの良いものです。

 今日の聖書個所から、神さまの喜ばれる人とはどんな人なのかを学ぶことができます。“心の中の真実を語る”ことは、人間にとってとても大切な事だと思います。それは相手のためになり、自分のためになることです。ウソをつかない人は信頼されます。人に信頼されるというのは、それだけでとても素晴らしい長所です。

 現代は確かに、正直者が馬鹿を見る部分はあるかもしれません。でもそれはあくまで、この世の中での理(ことわり)です。神さまはすべてをご存知です。
 僕は馬鹿でもいいから正直でいたい。神さまの聖なる山に登るに足る者でありたいのです。

「斯ることどもを行ふものは永遠(とこしえ)にうごかさるゝことなかるべし」
―― 詩篇15篇5節(文語訳)



「もうふりむかない」 (曲は1分15秒から)


2014/05/23

賛美が好きです

しばらくぶりの更新となってしまいました。
今日は賛美について。

最近の私のマイブームは、賛美を聞くことです。
いや、以前から聞いてはいたのですが、いろいろな賛美を聞きまくるというのは最近のことです。

テンションが高い時や、逆にしょぼーんとした時など、その時に応じた賛美を聞きます。
「賛美」とは、神さまをほめたたえるための歌です。
賛美を聞くと元気が出るんです。

気持ちが前向きな時は、元気な賛美を聞き、
気持ちが沈んでいる時は、静かな賛美を聞きます。


賛美と聞いて皆さんは、聖歌隊が厳かに歌い上げる賛美歌などを思い浮かべるかもしれません。
もちろんそれもれっきとした賛美であり、私もそれが大好きです。

一方で、現代の音楽により近い、テンポが早くエレキギターやドラムを使った賛美もあります。
与えられた賜物に応じて、ある人はギターを使い、ある人はピアノを使い、ある人はハーモニーを歌い、ある人はラップで神さまを賛美するのです。

私はといいますと、小さい頃から音楽はどうも苦手で(笑)
小学生の時、授業中に指名されたものの楽譜が読めず、泣き出したのを覚えています。
またリコーダーをうまく吹くことができず、居残りもさせられました。

そんな私ですが、最近はカホンやギターを練習しております。


さて、やや話はズレましたが、今日は私の好きな賛美を皆さんにご紹介したいと思います。
とはいえ、好きな賛美全部載せていたらページがやたら重くなるので、とりあえず2曲だけ載せときます。
これからブログを更新する際に、少しずつ紹介していきますね。


「全地よほめよ」


「かみさまがわかるでしょう」


2014/01/17

あけまして料理部!

あけましておめでとうございます。
今年も、「ぷてなは聖書を読むことにした。」をよろしくお願いします。

当初QTをメインに書くはずでしたが、今や教会行事のレポートが主になっております(笑)
聖書は読んでますよww

ブログを読む人に神さまのことを知ってもらうため、今年もまたーりと更新していきたいと思います。


さて。教会ではついに三つ目の部活、「料理部」がスタートしました!
料理を作るのはもちろん、食材の購入や食器洗いまで、全て含めて「料理部」です。

初回のメニューは子どもたちの中で希望がスッパリ分かれ、熾烈なじゃんけんバトルの末、「たこ焼き」が勝利を得ました!


みんなで車に乗り込み、買い物へ。
安い店を三店舗ほど回り、食材を購入。
予算内で買えるように、お金のやり繰りをするのも勉強の一つです。

帰ったらいよいよ料理開始!

“猫の手”で切るんだょ!


この子が持ってるのは、私が保育園の時に使ってた果物ナイフ
今回はウィンナーも入ります!←たこ焼きじゃねぇww


もちろん主役のたこもあります☆
小さく切ってね!


切れてない(笑)
気にしない気にしない!楽しければいいのだょ、うん。


鉄板に生地を流し込み、一気に焼く!!
きれいな球体になったり、ならなかったり。。。
でも初めてにしては、みんな結構上手にできました☆

くるりとひっくり返したら・・・







いぇーい!!(*`∇´*)<



お腹いっぱい食べて、お土産もできました☆
美味しかったし、楽しかった。
みんなで一つのモノを形作るって、とても嬉しいことなんだ。

今から次回が楽しみです。



ちょっと前に聖書の言葉が示されました、
それは祝福の約束の言葉でした。
現に、最近教会の中では、いろいろとハッピーなことが起きています。

これからもっと特別な事が起こりそう!

今年も神さまに期待して、生きていきます☆


神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。
この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。
このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と。
あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。
神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。
ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
―― エゼキエル書36章33~38節